児童館へ


振り返ってみるとここ最近の休日はいつも同じパターンです。
午前中赤ん坊と散歩⇒帰宅してお風呂で水遊び⇒昼食⇒昼寝⇒英会話⇒夕食⇒赤ん坊を寝かしつけながら自分も(が先に)就寝

昨日も全く同じパターンでした。
違うところと言えば、公園だけでなく児童館との二本立てだったところです。

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雨上がりの公園で泥だらけになりながら遊んでいたのですが、隣の児童館から職員の方が「汚れるから中で遊んだら?」と声を掛けて頂き、すでにかなり汚れていたのですが貸切状態の児童館へ。

実はこの児童館、自分が学童保育で30年前に通っていたところです。
建物はそのままなので、小学生の頃の記憶が一部蘇りました。オッサンになってまた来るようになるとは。まあ、恐らく数年後には小学校も自分と同じところに行くはずなのですが。

午後は英会話。
ここ3か月くらい自分なりに勉強した内容が、英会話に通い始めた3週間くらいでとっくに上回っています。
もちろん教室にいる時間は真剣だし、毎日コツコツ勉強もしてマジメに取り組んでいます。しかし、通う前も真剣に勉強してきた”つもり”でした。
成果を考えると本当に勉強したつもり、だったのでしょうね。

勉強、スポーツや仕事、何でもそうですが目の前の分かりやすい・見えやすい事に注力するあまり「手段が目的化」していることが少なくありません。
本来はもっと上の階層の(大きな)事をするための手段に過ぎないものが、視野が狭くなったり思考が短絡的になった結果、それが大きな目的に置き換わってしまうのです。

自分もとりあえずチンプンカンなテキストを読む、全然聞き取れない英語ニュースを聞く、など英語の勉強に時間を割くことで満足していました。もっとも、この英語を話す、ということも本来の大目的に比べればただの手段に過ぎません。
今行っているor行おうとしていることを、常に「これは何のためか」という事を考えていかねばならないと痛感しています。

そして自転車の強くなるためのトレーニングもその典型ですよね。
今日は100㎞乗る、メニューを完遂する、MAX1000w/FTP300Wを上回る・・・挙げればキリが有りませんが、これらが目的化するとそのための手段は間違っていることが多いと思います―強度やコースなど何も考えずにとにかく100㎞乗る、自分の体の調子を考えずにメニューありきでやり切る、最高出力/FTPがとにかく大きく出るためだけにペダリングやフォームなど全体の効率を考えずに乗りただの数字ゲーム的になっている、などです。

練習しているけど一向に強くならない、と言う場合には行っている練習が「強くなるため」という目的に合致してなく、練習のための練習=練習が目的化している可能性が高いと思います。

話が脱線しましたが、我が身を省みている今日この頃です。

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